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さあ、受験真っ只中ですが、受験の神様といえば 天満宮 菅原道真 ではこの天神様はどうやって神になったか? 菅原道真は845年京都生まれ 父と同じ文章博士(もんじょうはかせ)を目指し勉強に励む。 文章博士とは学者と官僚を合わせたような役職。 道真は幼いころから勉学に励み 871年26歳で官僚になり877年父と同じ文章博士となる。 886年42歳に文章博士を解任され、地方長官の讃岐の守となる。 道真本人は生涯、教育に関する仕事をしたかったため嗚咽したという。 赴任先の讃岐では人は飢え、疫病も流行り、人々は疲弊していたのでその実情を地方から中央に漢詩で友に伝えていた。 888年宇多天皇が太政大臣の藤原基経に阿衡として補佐するよう求めるが基経は政務を放棄。 これを知った道真は位の上の基経に意見書を送り、民の為に政務に戻るよう説き伏せ、基経は政務に戻る。 この後、道真は中央に呼び戻され天皇の側近として働くようになる。 894年遣唐使の大使として任命されるが唐の情勢が不安な為、派遣を再協議するよう申し出る。 13年後には唐は滅び、道真は宇多天皇や後の醍醐天皇らに深く信用されるようになる。 これにより右大臣となるも左大臣藤原時平が、これに危機感を抱き901年、道真のいない間に会議を開き 道真を逆心を持つものとして太宰府に左遷させる。 道真は都を離れる前日に 東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな と庭の梅の花に声をかける。 太宰府では長官とは名ばかりで、幽閉にも等しい質素な生活を送っていた。 903年59歳で死去する。 太宰府天満宮にある飛び梅は都から飛んできたという伝説の梅である。 道真の死去後、都では道真の祟りと言われることが、いくつも起こりその最たるものは宮中に雷が落ち、藤原氏が何人も死傷しました。 道真を恐れる気持ちから都の北に道真の怨念を鎮めるため北野天満宮が建てられた。 太宰府では民から慕われていた道真は雷神=農耕の神として神格化され祭られるようになった。 江戸時代には学問の神様として寺子屋で北野天満宮の御札や道真の像が多く祭られるようになりました。 因みに太宰府天満宮は道真の遺体を乗せた牛車が止まった場所に建てられていいうことはよく知られていますが、 太宰府天満宮の中には道真の墓があり明治までは墓守がいたといいます。 文章博士であり右大臣まで登り詰め、民のための政治を行った道真だからこそ学問の神様になったのですね。
ではまた。
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